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遅咲きの本の蟲で、奇譚好き。故郷は浜北(現浜松)。たまに手製本修行。
by origanese

銅御殿(旧磯野邸)見学会に行ってきた
銅御殿(旧磯野邸)の見学会に参加してきました。
前半はガイドの方が、後半は大谷美術館館長が説明してくれました。
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銅御殿は、大正元年に竣工した近代和風住宅で、明治末期から大正初期にかけての邸宅建築として高い価値があります。
日露戦争に日本が勝利したため、日本を見直そうという風潮が広まっており、このような日本的な住宅を建設することとなったようです。
屋根が銅板葺で、外壁も銅版が張り巡らされているため、通称銅御殿(あかがねごてん)と呼ばれています。
山林王の磯野敬が当時若干21歳だった北見米造(←茶道会館を創設した方。高村光雲の弟子でもあり、「銅御殿」も「彫刻家の作った家」と言われているとか。)に、「金にも時間にも糸目は付けないから好きなようにやりなさい」と言って造らせました。
磯野氏の要望により耐震・耐火を重視して造られていて、3月11日の地震では、庭の石積みが少し崩れたり、灯篭が倒れたりしましたが、主屋は特に影響を受けず、関東大震災も東京大空襲も乗り越えて当時の姿を保っています。
窓ガラスも、ベルギーから取り寄せた当時のもののままだそうです。

この邸宅は、その後、中野寛一(石油王)の所有を経て大谷家の所有となり、大谷美術館が管理しています。
館長が、同じく大谷美術館が管理している古河邸にも触れ、
「明治政府の良かったのは、かなりの高額を払ってでも優秀な人材を雇い入れたこと。」
「日本の伝統的な建築の中にも高い技術があった。
 コンドルの教えを理解できるだけのレベルに当時の日本があった。」
ということをおっしゃっていました。

ちなみに、この銅御殿があるのは湯立坂。
あのタモリさんも高評価をくれている坂です。
坂の名前は、昔はこの坂を下りると川(現在も地名になっている千川)が流れていて、坂の下から川向こうにある氷川神社に向かって湯花を立て献じたことに由来するようです。
「里人の説にこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは川を隔てヽ渡る事を得ず。故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。  (御府内備考)」


いつになく長文になってしまった・・・w
by origanese | 2011-05-14 19:49 | 建築探訪
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